最近、昆虫食が話題らしいじゃないですか。
私は珍しい食べ物は好きなほうで、コオロギも「いつか食べるんだろうな、今じゃないけど」と思っていましたが、
件のニュース映像を見て、食べたい気持ちが3歩くらい後退したところです。
パウダーだけなら抵抗感は変わらなかったと思いますが、加工前を見てしまうと…
食品会社があの映像を出したのはすごいなぁと驚いております。
コチニールだって散々食べているのでは?との指摘はごもっともですが、
パッケージにイガラムシの絵が描いてあったり、加工前のイガラムシの写真がどこかに掲載されていたら、私は掲載していない方のコチニールを選ぶと思います。同じものであっても。
食事中にトイレの話をしないのと同じで、普段都合よくいろいろ忘れて食事をしているので、「見せない」は案外重要なんですよ。
一方で、食べない、忌避する理由は、自分の中でちゃんと深掘りしておく必要があるだと思っております。
自分の意見を補強するために、社会的正義を理由にするのは強いんですけど…
具体的に言うと、健康面・寄生虫・補助金などなどの問題がある。だから食べない。という路線ですね。
〇〇だから食べない、と言う条件をつけてしまうと、
今後「実はコオロギ健康によかった」みたいな話が出てきたら、じゃあ食べるんですよね?となるわけで。
それでもやっぱり食べたくない時、残された道は「そのエビデンスは誤りだ、嘘だ」と言うしかなくなるわけですよ。
なので、本当に自分が引っかかっている事は何か?という己との対話は1回は必要かと。
というわけで考えてみたのですが、
節ばった足と触覚、それらの見た目が無理。と結論が出ました。
アリかミツバチサイズで足の節が認識しづらいものはいけそうな気がします。
このような理由は「お気持ち表明」と揶揄されるわけですが、
そんなこと言われたって、絶対的な理由はそこだしな。としか言えませんので、堂々とお気持ちを表明していく所存。
食べたい人だけが食べるものだと言う話も見かけるようになりましたが、
それなら「将来の食糧難に備えて」と言う枕詞をとって、食べたい人だけのものである旨をしっかり明記した方が良いのではと思っております。
なんとなく、将来選択の余地が狭まるイメージを抱いてしまうんですよね。枕詞に圧迫感があるというか。
牛乳を廃棄しなくなってから言ってくださいという意見には全面賛成です。
まぁこれも食提供側の社会的正義な言い訳ですよね。
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